2017.9.27 木の実講座


 ようちえん母たちによる、竹の子の会の未就園児のお母さんに向けた木の実講座を開催しました。
 今年も木の実に詳しい卒園児のお母さんに講師をお願いし、小さな子ども達も自然の宝物を拾い集めるビニール袋を片手に、自然溢れる公園内で木の実拾いを楽しみました!

 竹の子ようちえんでは、ドングリや松ぼっくり、石や木片など、自然の素材がそのまま遊具に使われています。"生きた素材を与える"ことを大事にしていますが、今回なぜ自然の素材を遊具として使うのだろうか?先生に聞いてみました。

 「自然界が生み出した木の実や棒には生命のプロセスが刻まれています。
 種から育った木、その木が茂って落とす葉、咲いた花のあとに残る実。たとえば棒一本とっても棒の中には木が地面から力を吸い取ってなるべく上へ上へと垂直に伸びようとした木の生きた証が刻印されています。
 人工的に曲げたあるいは人工的にまっすぐに作られた遊具と違って生命が育んだ生きた直線、曲線が潜んでいるのです。
 私たち人間も自然界に生まれ、成長する生命のひとつです。子どもが自然の素材を手にする時、感覚を通してそこに映し出される生命の痕跡を模倣します。そのことによって、子どもの生命力も強められるのです。」

 木の実講座でも、子どもたちは落ちている木の実の他に、枝、石ころ、なども無心に集めていました。子どもたちは自然そのもの。
成長を助ける栄養となることを本能的にわかっているのかもしれないなと感じました。

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 こちらは青空市に出品する予定の木の実のリースです。

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 秋の実りを玄関ドアやお部屋のインテリアに。リースの真ん中にキャンドルを並べてキャンドルリースにもいいですね。秋から冬の夜長を甘い香りにオレンジ色のやわらかな光を灯す、蜜蝋ロウソクで過ごすのも素敵です。

(通信係 O)




松尾先生インタビュー(5)

「松尾先生インタビュー(1)(2)(3)(4)」の続きです。

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竹の子の特徴はどんなところにありますか?


いろいろありますが、最大の特徴は親子関係に深く切り込んでいく、

(言い方は悪いけど)口を出していくことでしょう。


母親としての在り方に、時として苦言を呈することもあるので

そこにはお母さんと教師の間に信頼関係がないと成立しないことですし、

とてもデリケートで責任の重いことだと思います。

でも、いまの時代だからこそ、これくらいきちんと大人同士が対峙して

子育てに向き合うことが必要なんじゃないかな。


あとは、小学生クラスがあって、

ようちえんから小学校への大きな変化をフォローしていること。

ここまでしているところは、私の知る限りでは無いと思います。


それから、運動会や発表会や作品展といった

一般の幼稚園では当たり前の行事がないことも・・・(劇発表はあるけどね)。

 

この「行事」、子どもの教育、成長に本当に必要なのか?という疑問が、

現職の保育士、幼稚園教諭の間では少なからずあって・・・。


ややもすれば、成果主義に陥り、先生たちが行事をこなすことに追われ苦しんでいたり。

保護者へのアピール、園の宣伝が目的になってしまい、

子どもたちが置き去りになっている園もあります。


もちろん、親御さんが我が子がようちえんで

どのように過ごしているのか知りたいと思うのは、自然なことだから、

日常の延長にある、できるだけありのままの姿を見る機会を設けることに異存はありません。

子どもたちもおうちの人が見に来てくれることに期待し、ちょっぴりがんばっちゃう、

くらいがちょうど良いと思います。目的を間違えないこと、ですね。

 

そういう点からも、竹の子は徹底していると思います。

子どもの成長を支え、守る、ということに。


 



竹の子の母親達へのメッセージをお願いします。


子どもって大人を育ててくれる存在。今、世の中のお母さん達は、

子育てがとてもしんどいと思ってる。近所の横の繋がりが希薄になり、

社会全体で人が人を育む力が落ちてると思うんですね。

 

でも、人って人との繋がりなしには生きられないものだと思うんですよね。

 

だからお互いに声を掛け合ったりすることでいろんな子の面倒を見れることは、

親として生きていく上で財産になるはずだと思うの。

 

そういうことを煩わしいって思ったり自分にはできないなあって思うのは

すごくもったいないと思うんですよね、せっかくいい宝物があるのに。

 

人との行き違いとか価値観の違いがあってそこに摩擦が起きて傷もつくんだけど、

傷が治ってかさぶたが剥げた後には綺麗な肌ができていくのに、

そこまでいきつく前に逃げないで欲しいなあと。

その方が本当はみんな幸せになれるはずなのにと思うんだよね。


あとはやっぱり子どもに触って欲しいですね。

今の子どもって、子どもなのに緊張が強いんです。

触られることに慣れてないというか。

 

触れ合いは最初は肉体から始まるけど、

世の中のお母さん達に見られる関わり合いの希薄さというのが

今の子ども達にもすごく表れているなと思います。

 

それは突き詰めていくと肌の接触の少なさというのが大きい気がします。

大人にとっても。


今の子達ってバギーがあるのが当たり前の生活だから、

すぐバギーに入れられちゃう。

赤ちゃんの頃だけを見てもお母さんの肌に触れられている時間は激減していると思います。

 

バギーが浸透してきたのって、この20年くらいじゃないかな。

私が勤めていた頃は、バギーで保育園に連れてくる人は一人ももいなかったよ。

仕事場にそれを持っていけないし、保育園に置いておく場所ないからね。

私が辞める頃(2004年)、お母さんからバギー置き場の要望が

ちらっと出てきていたと思う。

 

そのころに、働いていないお母さんたちがどうしていたのかは分からないんだけど、

保育園に来ているお母さんたちは、「バギーは結局買う暇なかった」

「あったけど使う時がなかった」で終わることが多かったので、

それだけでも全然、雲泥の差でしょ。


バギーを使わない分、赤ちゃんと密着していると、

たぶん子どもの変化にすごく敏感になれると思うの。

肌の感じが、いつもと違う、いつもより汗ばんでいるとか、かさかさしてるとか、

冷たいとか、熱いとか、そういう風にお母さんの身体で

子どもを感じ取る力って育てることができるのに、

その機会を失ってしまっていることの弊害ってすごく大きいな、って。

 

私が保育士になってまだ1年目の時に、あるお母さんが、

「先生、うちの子、今見てると、たぶん何ともないと思うんですけど、

なんかいつもと違うんです。熱も計ったけど熱もないんです。

でもなんとなくいつもと違う気がするから、

なるべく今日は電話を取れるところにいるようにするから、何かあったら電話ちょうだい」

って言われて、私はまだ1年目だったから、半信半疑だったの。

 

そしたらお昼過ぎたら熱上がってきて、お昼寝終わったら39になってて。

やっぱりお母さんが普段子どもと接していて、なんとなくいつもと違う、

って思う感覚を持っていて、「お母さんってすごいな」っていうのがあったんだけども、

近頃になると、逆になることがあるの。

 

私たちがおかしいな、と思っていても、

お母さんに言うと、「そうかしら?」っていう反応で。


子どもに触らないことで、お母さんが自分の身体で子どもの状態を感知する

感受性が育っていってないんだな、って思います。

 

昔は便利なものがないから、そのままやっていれば付いた力が、

今は目の前に便利なもの・・・

お母さんがお母さんになっていく為の力が育たない便利なものがたくさんあるから、

使わないものはどんどん衰えていくし、育っていかないんだよね。


 


でも、今は便利なモノはどんどん取り入れて行く人が多いように思いますし、

こういう考えは少数派になってきているのかな、と思います。広めていくには、どうすればいいんでしょう?



これは自分もそうなんだけど、「やっぱり自分はこのことは大事だと思う」、

「このことだけは自分は手放したくない」っていうのを持ち続けようと思うこと、

が最初の一歩なのかな、って思うんですよね。

 

友達が言っていたことなんだけど、池に石を投げたら、ぱーって波紋が広がるでしょ。

その一石でい続けようって思うことが大事なんじゃない?って。

 

たった一個の石だけど、こうやって池に入れたら、ぱーって広がっていくから、

その石であることを止めちゃったら、その波紋はないからね、って。


 


 


ありがとうございました。




松尾先生インタビュー(4)

「松尾先生インタビュー(1)(2)(3)」の続きです。

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松尾先生のお話を伺っていると、否定するような言葉を言わないようにされてるのかな、

と感じるのですが、言葉の使い方に気を遣ってらっしゃいますか?



そうですね。特に子どもに対してはものすごく言葉を選んでいるつもりです。

 

私、各保育園で必ずお一人、「この人!」っていう

保育の師匠みたいな先生と出会うことができて、それはとても大事なことで、

おろそかにしちゃいけないことなんだ、っていうことを学ばせてもらいました。


でも、そうじゃない保育者もたくさんいて、たった一言、その一言が

ものすごくその人を傷つけてしまうことがあるな、

その一言で取り返しのつかないことになりかねない、

っていうのを他で見ていることもあったので、あれをやっちゃいけない、

ていうのが自分にはすごくあるかな。

その一言で救われるっていう一言もあるしね。

 

大人に対しては・・・むずかしいな、と思うんですけどね。

特に竹の子は、お母さんたちと、

子育てについて深いところまで突っ込んでいくので、

保育園時代よりももっと、お母さんに対してどういう風に言葉をかけたら伝わるのか、

ということを考えちゃうところがありますね。


自分が母になった体験がないだけに、お母さんたちの心情に寄り添うのに、

なかなか分かってあげられないかも、っていうところもあります。

 


卒園児を見送り、新しく入園児を迎える時の心境はいかがですか?


卒園していく子に関しては感慨深いものはすごくあります。

 

私は、夏休み冬休みに、子ども達が作ったり描いたりした作品をスケッチブックにまとめて、

コメント書いたりとかするのだけど(卒園時に先生から親に渡してもらえる)、

その時にいろいろ振り返ってあんなことやこんなことがあったと思い出しています。

 

卒園式の前日や当日は慌ただしいので感慨にふける暇はないんですけど、

春休みが終わると「今日は入学式だなあ」とか、

学校が始まると「みんなどういう風にして行ってるかなあ?」と思っています。

 

森山先生は小学生クラスでまた会えるので、

森山先生に「どんなだった?」と聞いたり、

下に兄弟がいる時はお母さんから様子を聞いたりしてますね。

 

ようちえんに入ってくる子達に関しては、

私は金曜クラスをさせてもらっているからその繋がりがずっとありますね。

金曜クラスからようちえんに入って人数が多くなって

その子達が「どこまで大丈夫かな」とか、「この辺で一回休んだ方がいい」とか、

お母さんとの離れ具合なんかも気にして見ています。



ようちえんの2年間というのは、短いと感じることはありますか?


私は保育園が長かったのに加えて、子供を丁寧に見ている所で働きたい

というのが常にあったので、ずっと小規模な保育園ばっかり選んできたんですね。

 

1学年が10人、全体の定員が60人という環境でずっと働いてきたんですけど、

そうすると全員見れるんですよね。もちろん自分が担任するクラスはあるんだけれど、

保育時間が長いから先生はローテーションで働いてて、

自分のクラス以外のクラスにもちょこちょこ入るのね。

 

60人だと、子供の名前と母親と父親の顔と職業と

だいたいの家庭環境がなんとか把握できるんです。

自分がいつどこのクラスに入っても対応できる、

そういうことを大事にしてる園で0〜6歳まで持ってるようなものだったから、

6年間すごく長くて本当に自分がお母さんになったような感じですね。


それと比べてしまうと、(ここでは、私は幸い2歳から

隔週ではあっても週に一回金曜クラスで濃密な時間を持たせてもらってるんだけど)

それでも「ようちえんは短いなあ」ってそういう意味での寂しさはある。

 

2歳児のクラスで来た時に

「ああ、この子どんな赤ちゃんだったんだろうなあ、

赤ちゃんの時から見てみたかったなあ」と思うことがあります。

 

だから家庭訪問(注:年中さんの春に行われます)に行くと

「赤ちゃんの時の写真見せて」ってお願いしちゃうの。

 

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松尾先生インタビュー(5)」へ続く。




松尾先生インタビュー(3)

松尾先生インタビュー(1)(2)」の続きです。

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竹の子の活動を見られて、第一印象はいかがでしたか?



第一印象というよりも・・・私、春に前の保育園を辞めてから、

7ヶ月子どもと触れ合えてなかったから、

子どもといられることの喜びの方が大きかったんです。

7ヶ月間子どもに触っていなかったことに対して自分では自覚がなかったんだけど・・・

こんなにも子どもといることが、嬉しいというか、幸せというか、

そっちの喜びの方が大きくて。「やっぱり子どもといたい!」って(泣)。

 

ほんとに子どもといることって幸せだ、

子どもといることしかできない、って心底思ったの。

この仕事好きで、大事で、自分の中でとても大切なことだと思っていたけども、

久しぶりに子どもに触った時の喜びがこんなに大きいんだって思ったんですよね。

 


天職ですね。お空で決めてきたみたいですね。


竹の子に来て、私もそう言うようになった(笑)。

子どもが、お誕生日のお話とか、何天使とか、お話するでしょう?

そういう時に、「決めてきた」って言ってます。

「神様と約束してきた」って。



7年前と今とで変わったことはありますか?


年取った、体力が落ちた(笑)。


保育者として違うのは、歌を歌うようになりましたね。

自分が歌を歌うのが苦手だっていうのもあるんだけど、

保育園って、竹の子以上に、昼間のおうちなのよ。

歌を歌うのは、赤ちゃんを寝かしつけるときに

ささやくように子守唄を歌うくらいだったから、

大々的に歌うことはなかったんです。

 

だから、竹の子では何もかもが歌で進められていくことに、違和感があったの。

「恥ずかしいわ、人前で歌うなんて。」と。

最初の頃は、自分がドキドキしながら歌ってた(笑)。

でも、子供って歌が好きなんだな、っていうことも改めて思いました。



竹の子での印象的な出来事はありますか?


出来事じゃないんだけど、ようちえんの空間の自然な美しさかな。

保育園のキャラクターっぽい飾り、あれがもともとあんまり好きじゃなかったので、

ここの空間の美しさっていうのは、印象的だった。


出来事は、毎年いろんなことがあって、まず森山先生がいきなり倒れたっていう。

とにかく必死でした。

もしかしたら、私が来るまでの十何年間もそうだったのかもしれないけれど、

毎年毎年変化の連続で、「去年やったから、今年も同じことをすればいい」

ということはないです。


例えば、造形クラスにいつから移行するとか、

やってる内容も毎年少しずつ違っていて「その時に何が必要か」を考えるし、

「この子達にはこれよりこれをやった方がいいだろう」とか、

「これが必要だろう」ということを休みの間に準備したりとか。


それも含めて、少ない人数でやっているだけに、

(教師の)1人2人の変化が、ものすごく大きいんですよね。

20人先生がいて1人怪我するのと、

3人しかいない中1人怪我するっていうのは全然違うから、

日々、きちんとした保育の質を子どもたちやお母さんたちに提供し続けるために

保っていかなきゃいけないものというのは、精神的にも肉体的にも、

確かにものすごくハードです。


私はシュタイナー教育について詳しく学んできた訳ではないから、

これが正しい理解なのか分からないけれど、

こういうハードな状況に対する不安なんかが自分の中にあるということも、

自己教育のところと関係あるんだと思うの。

 

自分自身の精神修養というか、不安を持つということに対して、

自分がどうあるべきなのか、自分に問い直すというか・・・

シュタイナーが「自分の状態と向き合え」と言っていることと

繋がってくるんだろうな、と思います。

 

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松尾先生インタビュー(4)」へ続く。




松尾先生インタビュー(2)

松尾先生インタビュー(1)」の続きです。竹の子との出会いについて教えて頂きました。

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乳児院の次にお勤めされた保育園はいかがでしたか?


 


「ベビーホテル」というのが、昭和50年代から平成に変わる頃まで割とあったんですけど、

それは行政がやっている保育園は、だいたい朝8時から夕方6時くらいまでだから

昼間のお勤めだけしてる人なら利用できたんだけど、それ以外の職業の人・・・

つまり行政が想定している枠に収まらない人たちが預けていたのが、ベビーホテルだったのね。

 


でも、当時、大きなベッドに赤ちゃんが何人も寝かされて死亡事故が起きるとか、

食事はコンビニで買ってきたものを刻んで食べさせているとか、

そういう劣悪な状況があったんです。

 


私が最初に入った保育園は、行政がやってくれないなら、

自分たちで子どもたちを救っていく保育園を作ろうっていう人たちで

始めた保育園だったんです。

 


そのころ自分たちだけで保育園作ろうと思うと(今でもそうですけど)

億っていうお金が必要だったのね。

その時立ち上げようとしていた人たちは、私財を抵当に入れて、

銀行からみんなでお金を借りて、保育園を立ち上げたんです。

 


私は立ち上げには関わっていないけれど、

それでこういう深夜までやっている保育園が出来上がって、

後々そこは行政が認めて認可をしてくれたけど、

認可がもらえるまでに10年くらいかかってるの。

 

だから毎年運営会で返済計画っていうのが出されて、

そこで今年の返済目標は300万だ、ってなると、

お母さんたちはバザーでも何でもしてとにかく300万稼ごう、

ってそれを返していた時期があって、

私がそこに行った時はもう認可は降りた後だったけど、

まだ借金は残ってる状況でした。

結局、立ち上げから30年くらい経って全部返し終わったと聞きました。


 

 


竹の子との出会いはどのようなものでしたか?



それは、シュタイナーとの出会いに遡るんですけど、

前の保育園もいい保育園だったし、

子どもの発達に関しての知識や子供を育てて行く上で必要なこと、

子供の集団を保育していくことの技術や技量・・・いろんなことを学んできたけれども、

もうひとつ何か足りないという思いがあって。

 


それで、前の保育園を辞めた後、「これからどうしようかな」と思っている時期に、

図書館でたまたま手に取った本がシュタイナーの本で、

それをパラパラっと見ていたら、今、正確な言葉は思い出せないんだけど、

「大人の自己教育が絶対に必要だ」という内容が書かれてあったんです。

 

「教師は教室に入る前に、自分のいろんな感情とか、いろんなよこしまなものを、

教室に入る前のコート掛けにコートを掛けるように、そこにおいてこなきゃいけない」、

「子どもの前に立つ大人としてどうあるべきか、それが何よりも大事だ」って書いてあって、

それがその時、私が探していたものだ、って思えました。

 


それで、シュタイナーについてもっと知りたいと思ったので、

退職金をはたいて、北海道のひびきの村(シュタイナーの人智学について学ぶための共同体)

に行きました。その後に、学研の「シュタイナー教育入門」(現在廃盤)っていう本を読んで、

そこにはいろんな先生の文章が載っていたんだけど、

森山先生の文章を読んで、「コレだ!」って。

 


それで、竹の子を探したんだけど、その頃は連絡先が公開されていなくて、

インターネットで調べても、直接竹の子につながるような情報が得られなかったんです。

 


そのころ私は藤沢に住んでたんですけど、

茅ヶ崎に隔週で水彩の講座があったので行ってみたんです。

 

そこで「実は竹の子ようちえんを探してるんですけど、見つからないんです」って言ったら、

「あら知ってるわよ」と。

実は、水彩の先生は篠さん(横浜自然育児の会トロルの森の先生)の奥さんだったんですよ。

それで、連絡先を教えて頂いて、当時窓口担当だった菊池さんにお電話して

(この頃は窓口も会計も何もかもお母さんたちがやっていた)、

皆さんと同じように「お山を見学したいんですけど」って。


初めてお山に行ったのは2004年10月19日で、その後2〜3回見学に行きました。

 


その頃、サポートの先生でお1人、

翌年3月いっぱいでご主人の都合でアメリカに行かれる方がいらして、

2004年の年末ぐらいに、

「(その方の抜けた分の週1〜2回、サポートとして)来る?」って言ってもらったんです。

 

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松尾先生インタビュー(3)」へ続く。


 



松尾先生インタビュー(1)

2013年2月発行のようちえん通信『小人たちから』に掲載された
竹の子ようちえんの教師の一人である松尾先生のインタビュー記事を
改めてこのブログにも載せてみようと思います。
これは、竹の子ようちえん20周年にあたる2012年度に、
松尾先生に竹の子との出会いや保育に対する思いなどをインタビューしたものです。
先生のこれまでの経緯など、普段は知ることができない貴重なお話なので、
ぜひ、お時間のあるときに読んでみてください。

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−2005年の松尾先生の原稿を読むと(2005年の通信「小人たちから」に松尾先生の寄稿があります)、

最初から保育士をされていたのではないことに驚きました。


もともと教育学部にいたので、教員免許はとったんだけど、

実際に教育実習に行ってみて、自分がやりたいことではないな、

というのがひとつありました。もうひとつ、学生からそのまま学校に就職すると、

一生「学校」という世界しか知らないことになるので、

学校以外の社会というところに出ないとまずいんじゃないかな、と思ったので、

一般の企業に就職したんですね。

就職したのが1990年頃で、バブルの終わりの方ではあったけれども、

まだ景気の良さが残っていて、すごく仕事が忙しかったし、

お給料も今までの人生の中で一番良かった(笑)。

 

そのころは海外旅行に行ったり、欲しいものはお金さえあれば手に入るし、

そういう生活をしていたんだけれども、そこで自分に疑問がわいて、

仕事そのものにも喜びを見出せなくなってしまって、それで会社を辞めました。

 

そのときに、7年前の原稿にも書いたんだけど、

乳児院でのアルバイトがすごく楽しくて、

どんなにお金を貰っても煮詰まりながら仕事をするよりは、

こっちの方が幸せって思って。


ただ、保育士の資格は教員免許の資格とは全然違うので、

取り直すことにしました。

でも今更もう一度保育の学校に行くお金も時間もないし、と思っていたら、

国家試験があると教えてもらったので、

バイトをしながら独学で保育の勉強をしました。

保育士の資格というのは、本来3年間かけて全部・・・

当時全部で12科目くらいだったと思うけれど、それをとればいいのね。

でも私は3年暮らして行くだけの貯金はないから、とにかく1回目で取ろうと思って。

試験のことを聞いたのが4月で、試験は夏だったから、

実質3〜4ヶ月しかなくて、それでその当時は死にものぐるいで勉強した。

後にも先にもそんなに勉強したことない(笑)。

 

乳児院は保育園とは違うのですか?


乳児院というのは、例えば虐待の問題などがあって、

家庭で育てて行くことが難しい子どもたちが暮らしているところなんですね。

3歳まではそこにいられて、その後は養護施設にいくんだけど。

私にとっては、自分が世話をするって意味で乳児を看るのはそこが初めてだったから、

子どもってそういうものだと思ってたけれど、その後、

保育園で出会った子供たちとの発達の差、成長の差が

ものすごく大きいことに気づいて本当に衝撃でした。


生後3年間の間に失われてしまったもの、育たなかったもの、

というのはこんなにも大きいんだ、って後になってすごく思いましたね。


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松尾先生インタビュー(2)」へ続く

 


森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(7)

「森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(1)(2)(3)(4)(5)(6)」の続きです。

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− 竹の子に来る母子達について、この20年でどのような変化が見られますか? −

 

まず最近のお母さん達について感じることは、

私達教師が子育てについてアドバイスしても、

それを感覚的に受けとめられなくなっている、ということ。

いったん頭から入れて頭で理解してからでないと受けとめられない。

頭の中にしか入ってないよ、まだ手足の中に降りてないよと指摘しても、

そういう自分自身の状態を理解できない。

感覚と思考の差がわからないのかもしれない。

それは、今のお母さん達が小さい頃、感覚的に体験することが少なかった、

ということの現れです。

昔のお母さんはもっともっと感覚的な理解力があった。

教師の言う事を直観的に理解して実践してたように思います。

 

そして、親よりももっと顕著に現代の影響が出ているのが子供達です。
たとえば今年(2012年)の年長児にも見られる例だけど、
電車のアナウンスのようなスピーカーを通した音や機械的な動きを、
好んで模倣して遊ぶ子が多くなっている。
お家の中にも外にも機械や物が溢れていて、
常に子供の模倣衝動を刺激してくるので、
子供の中で物質的なものを感受する感覚だけが肥大してしまっているように感じます。
大人達も機械に依存した生活にどっぷりつかり込んでいるしね。

 

それに比べて、においとか手触りとか、
もっと感覚の奥に入り込んでいって、
子供のエーテル体やアストラル体にまで浸透していくような感覚体験には
感受性が鈍いの。

 

子どもが物質的なものとばかりつき合って、
生命あるものとの関わりが疎遠になるとどんなことが起こるかというと、
人間としての感覚形成がいびつになるのよ。
泥んこ遊びを嫌うとか、虫や動物にれない子供は以前から多かったけれど、
今は、特定のものしか食べられない、友達と遊べない、
友達との関わり方がいつまでたっても一方通行で、
子供同士がぶつかる・結ぶ・つながる関係に発展しないなどの問題が出てきています。

 

母子分離に非常に時間がかかるようになっているのも現代の傾向です。
それだけ子供が強い不安にさらされているということ。
とても長い時間守られないと外に向かって出てこられないの。
でも、肝心のお母さんがそのことを感じとれないってことが実に深刻。

 

そんな状態にもかかわらず、2才3才から幼稚園という
「親がラクをするための機関」にポンと放り出されていく子供達は
一体どうなっていくのだろうという危惧を、私は非常に強く抱いています。

 

竹の子ようちえんのお母さんだって、
母子分離が完了するまで子供に寄り添うってことが
“しんどい”と感じるようになっていると思うよ。
母としての心のキャパシティーというか、
お母さんとしての器そのものが狭くなってきている。
お母さんの内側で、母であることより個であることの欲求が勝っているんだな。
個であることと母であることとの両立は不可能ではないはず。
本来は対立するものではないのだからね。
でも“母親になる”まで、すごく時間がかかるのね。
子どものありのままを受けとめる、子供の成長を待つというような、
昔の母親にとっては「あたり前」だったことが、
頭ではわかっても、できるようになるまでの道のりが、
ものすごく遠く困難になっていると感じますね。

 

人間としての感覚を健全に育てていくことこそが、
人間としての感情を生み、人間としての思考を育てていく。
だからこそ幼少期の感覚体験というものをすごくすごく大切にしたいのです。

 

今、竹の子ようちえんでは、
子供達のおっぱいに触ったり私のおっぱいを触らせたり、
とにかくベタベタとかなり大胆な接触方法をとっています。
それがお母さん達には
何かとても極端なやり方のようにうつっているかもしれないけれども、
でもそれくらい強く、
非常にダイレクトに彼らの感覚に働きかけていかないと、
子供達が簡単に物質的な刺激に足をすくわれてしまうのを
私はひしひしと感じています。そういう時代になっているんだよね。

 

では現代社会の中でどう子育てしていけばいいのか。
テレビや機械音や物質的な刺激から
子供を完全に遠ざけようとすることはあまり現実的ではないですよね。
たとえ家庭や幼稚園では守ることが出来ても、
一歩外に出ればそこかしこに刺激はあふれているのだから。
そうではなく、子供の感覚を育てる一番簡単で現実的な方法、
それは子供をよく触ってあげることです。
どんなやり方でもいいから、とにかくたくさんたくさん触れてあげて。
「手」で、「目」で、「耳」で、「心」で。

 

たとえば、手をつないで歩く、
一緒に料理や掃除・洗濯をする
(家事を子どもと一緒にするコツは、
ひとつだけでいいから電化製品を使わないこと。
ほうき、ちりとり、洗面器など手仕事でできる道具を用意すること。
完全を求めないこと。)、お風呂の中で身体を洗いっこする、
くすぐりっこする、もぐりっこする、などなど。
お母さんやお父さんに触られることで、
そこから人間の中の“人間”を感じとる感覚も育ってゆくのよ。
皮膚感覚こそが人間への信頼感、対人的な社会性、
人間的な思考を育てていく源なのです。
「高次の自我感覚というものは、裏返せば皮膚感覚である。
皮膚感覚に全てが集約されている。」
とシュタイナーが言っているがごとくです。

 

 

 

− 竹の子のお母さん達にメッセージをお願いします。 −

 

 

さっきお話したように子供をよく触ってあげてほしいという事。
子どもの身体を丸ごとよく触って、
それからお母さんの身体も子供にいっぱい触らせてあげてほしいです。
6年生になるまで、おっぱいを触らせてあげるつもりでいて。
お母さんは子供にとって、自分が産まれてきたこの世への入り口だもの。
子どもは、自分が不安定になって居どころがわからなくなると、
必ずお母さんの所へ行って確かめようとする。
自分が自分であることの確かな手ざわりがそこにあるから。
やがて子供は自立の足がかりを見つけると、お母さんを触りに来なくなります。
その時が来るまで、子供の席をちゃんとあけておいてあげて欲しいです。

 

 

 

− 最後に、森山先生の夢を教えて頂けますか? −

 

 

当面の目標は先ほどお話したとおり、
竹の子が本当に目指してきた教育をこれから展開していく、
ということですけれども、それも終えて
いよいよ自分が教育の現場を離れなくてはいけない時がいつか来ますよね。
その時にはね、おばあちゃんになった奥田先生や
かつて一緒に竹の子をやったメンバー、お母さん達なんかとね、
『たけのこ座』というグループを作りたいの。
それで、みんなで歌や楽器を一生懸命練習して、
色々な幼稚園に行ってね、人形劇やら音楽会やらを出前するの。
奥田先生がライアーを弾いたり、私がオイリュトミーを踊ったりね。
そういう、子供のための小さな小さな芸術劇場をできるようなおばあさんになりたいな。
それが私の究極の夢です。

 

 

− ありがとうございました。 −



森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(6)

「森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(1)(2)(3)(4)(5)」の続きです。

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− これからの竹の子ようちえんの展望についてお教え下さい。 −

 

 

先ほどお話したように、紆余曲折を経て教師として必要な人材が出揃い、
1歳〜10歳までのトータル的な竹の子教育システムが確立したのが去年でした。
ここにきて、竹の子が目指す“教育共同体”としての、
細く長い「親と子と教師の教育の道」がようやく出来あがったのだと思います。
竹の子の教育のイデー(※真の姿、理想的概念)があるのだとしたら、
その土台はでき家も建ったけれど、イデ―が実現するのはこれから先のお話。
20
年かけてようやっと、本当に竹の子がやろうとしてきた教育を
実現するための準備が整ったのだと言えるでしょう。
そういう“流れ”のようなものを今とても強く感じています。

 

30周年記念パーティができるかどうかはわからないけれど、
30
周年を迎えるこれからの10年間というのは、
竹の子の教育というものが真の意味で
教育として成熟する時期になるだろうし、
それを目指していきたいと思っています。


 

− 竹の子の卒園生達のその後の進路にはどんな傾向が見られますか? −

 

 

パーティの時に初めて知ったのだけれど、
意外にみんな偏差値の高い大学にいっていることに驚いた。
東大・京大・6大学とかね。
佐藤先生に、それは竹の子の教育のおかげではなくて、
親のDNAのせいだよって言われて納得したけれど。
もちろん受験に失敗した子もいるのだけれど、
みんな根がオプティミストというか、
すごくあっけらかんとしている感じが気持ち良かったです。

 

高校生、大学生になっても幼稚園時代の友達とメル友だったり、
いまだにお互いのつながりが深い事も驚きでした。
親同士が仲良いからなのか、
それとも小学生クラスまで関係が続くからなのかしらね。

 

あとは、あくまでも自分の道が大事、
という傾向がとても強く見られました。
男の子は圧倒的に野球少年が多く、
男女ともに芸術方面に進んでいる子が多くいましたが、
それをみんな自分の一生の仕事や趣味にしていきたいと思っているみたい。
やりたいことをとことん追求する姿勢というのは、
竹の子の教育の賜物なのか、
もともと頑固で我が道を行くような子供達ばかりが竹の子に集まってくるのか、
それともその両方なのか、それはわからないけれどね。
まぁとにかく、自分のやりたい事をやり通しているから、
みんな健康で元気にしていますよ。それが一番だよね。

 

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森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(7)」へ続く。



森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(5)

「森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(1)(2)(3)(4)」の続きです。
20年間、ようちえんを続けてきた森山先生の力になったものとは。。。


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− 激動の20年でしたね。その間、森山先生ご自身も何度か大病され、
肉体的精神的に非常につらい時期もおありでした。
それでも20年間ようちえんを続けてこられた。その原動力となったものは何でしたか? −

 

 

竹の子ようちえんを設立しようという時、
竹の子の会には遠くから来ている人も多かった。
週一度、火曜日のお山と木曜日の造形クラスだけだったから、
遠くからでも通うことができたのね。
でも幼稚園となると毎日になるわけで、当然通えない、
入園したくてもあきらめざるを得ない人たちがたくさんいました。

 

でも、そういう人たちもみんな幼稚園設立のために
惜しみなく力を貸してくれました。
幼稚園の遊具を作るのに協力してくれたり。
「先生、これは主人に内緒で貯めてきた私のへそくりだから、幼稚園のために使って。」
といって園舎の敷金・礼金・家賃の全額を寄付してくれたり。
「うちの子は通えないけど、
ずっとこういう幼稚園ができたらいいなと思っていたの。だからこれ使って。」
といって50万円ポンと出してくれたり。
本当に多くのお母さん達が幼稚園設立を支えてくれた。

 

その人たちにね、「先生、このようちえんができるのは私達本当にうれしい。
でも、ずっと長く続けてね。2〜3年でもうおしまいってしないで。
卒園生達が大きくなったときに“ここが私の幼稚園だったんだ”って
戻ってこられるくらい長く続けてね。」と言われたの。
大切な大切なお金も出してもらって、力も出してもらって、
その言葉が重くてね。それで最低でも10年は続けなくちゃ、と思った。

 

さて何とか10年続けてみたら、まだ組織もちゃんとできてなくて、
私は病気もしちゃって。でもまだやめちゃいけない、ま
だ子供達が帰ってこられる場になってないな、
みんなが帰ってこられるようになるまで頑張らなくちゃ、と思い続けて。
少なくとも初めの10年間の卒園生達が大きくなるまでは続けなくちゃ。
子供達がいつでも帰ってこられる「竹の子ようちえん」という場があって、
先生が変わらずに「あ〜、○○ちゃん!」と迎えてくれたら嬉しいだろうな。
とにかくそこまでは頑張ろうと思い続けて20年間やってきました。

 

ですから、ようちえんを支えてくれた、
けれどもようちえんには来られなかった親たちの気持ちを
絶対に裏切れないなと思ったのが、私が20年もの間続けてこられた原動力です。

 

 

それにね、色々あったけれどやっぱり楽しかった。子供達といることが。
そしてお母さん達と共に運営していくことが。
楽しくなければやはり続けてこられなかったでしょうね。
お母さん達と丁々発止やりあいながらも、仲間として、
いわば同志としてようちえんを運営してこられたことは私の一番の宝です。
初期の頃の私は、お母さんを育てるにはまだ若すぎた。
「先生の言い方はキツすぎる。もっと優しい言い方があるでしょう。」
とよく吉山さんにたしなめられました。
山本先生を怒らせて口をきいてもらえないこともあったし。
今考えると、当時の母たちがよく未熟な教師のありのままを受け入れてくれたなと
頭の下がる思いです。私が人間として成熟するための勉強を
たくさんさせてもらった20年だったとも言えますね。

 

この間の20周年パーティの後、
かめおがまだ生きている事を知った卒園児たちが、
一目みようと皆、園舎に立ち寄っていったのね。
寝ているかめおときみどりを引っぱり出して、
「あー、ホントにかめおが生きてる!」と大喜び。
かめおは第3期生の小林達矢くんがドブの中から拾って持って来たの。
きみどりは第6期生の伊藤友花ちゃんが道端からつれて来たのよね。
当時からかめおときみどりは子供達にとって幼稚園で一緒に遊んだ大切な仲間だった。
それが今もまだ生きている事がすごく嬉しかったんでしょうね。

 

その後、園舎の中に入ってからも
「あ〜、何もかわってないじゃん!
この机も棒もゆかたも私達がいたころのまんまだ〜!」って大騒ぎして。
ようちえんに帰ってきた彼らの喜ぶ姿を見て、
色々あったけれど20年たゆまず続けてきて本当に良かったと思いました。
お母さん方も「昔と変わらない場所が今もあることがうれしい。」と言ってくれました。

 

たしかに遊具にしても、それからお話や歌にしても、
竹の子ようちえんの教育のエッセンスは20年前の開始当初から何も変わっていないんです。
時代によって、どこにそれを入れていくか、
どうその世界に導いていくのかというやり方は異なるけれども、
根本にある竹の子の教育精神は初めから今日までずっと同じ。
変わらないの。変わらないというのは、この時代にあって、
とても珍しいことだし良いことなのかもしれないね。

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森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(6)」へ続く。


森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(4)

「森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(1)(2)(3)」の続きです。
第三期のおはなしです。

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さて、こうして土台もでき建物もちゃんと建った、じゃあ中身は?という所で、
2007年以降、第三の「転換期」に入っていきます。


この時期の最大の事件は、何といっても園舎建て替えの危機が持ち上がったこと。


ある日大家さんから
「森山さん、そろそろあのボロ屋を建て替えようと思っている」
と言われた時は、えぇぇ!と真っ青になりましたね。
「な〜に、建て替えたらまた使ってもらっていいですから」
なんて大家さんは言ってくれたけれど、
建て替えにはまず私達がどこかに引っ越さなくてはならないし、
その期間ようちえんはできない訳で、
大家さんが考えているほど建て替えというのは私達にとって簡単な事ではなかった。
大家さんには大家さんで、
貸主として子供たちが通ってきているということを知りながら、
この古い家の耐震工事をしなかった、建て替えもしなかったとなると、
何かあった時に自分の責任問題になる、という事情があったのだけれども。

 

それであれこれ悩んだあげく、当時ようちえんにあったプール金の全額300万円、
これは設立当初から自己資金を持ち出しでやってきた先生達のために
退職金として積み立ててきたお金だったのだけれども、
もはや教師の退職金なんて言っている場合ではない、という事になって、
それを元手に全額ようちえん持ちで耐震工事を行いますから、
どうか建て替えはしないでください、と大家さんにお願いしました。

「いいんですか、あんな古い家にそんなことまでしてもらって」

と大家さんは驚いていたけれども、

この園舎があるからこそようちえんが子供達にとって

本当に良い空間になっているのだから、

私達としては何としても建て替えを阻止したかった。

ここを失いたくなかったのです。


大家さんは承知してくれました。
そして工務店を営む園児のお父さんの手によって耐震工事が始まり、
何とか園舎建て替えの危機は回避できたのだけれど、
時期を同じくしてようちえんは園児数減少の憂き目に会い、
200
万円の大赤字を抱えることになりました。
さて、耐震工事の次は赤字財政をどうしようという事になり、
教師の給与を大幅に引き下げ、新たに設備費を導入し、
さらに赤字の200万円は
竹の子の会と小学生クラスのプール金から100万円ずつ補ってもらう、
という苦肉の策でなんとかかんとか乗り切れました。
その後、大家さんから耐震工事費の半分を負担するという申し出をいただいた時には、
涙が出そうなくらいにありがたかったわ。

 

この時期もう一つ大きな出来事が重なったのが、
奥田先生がようちえんの先生を退かれたこと。

 

ようちえんの仕事とお父様の介護との両立が難しくなって来た時、
「父の最期を看取るところまでやりたい」
という奥田先生の気持ちが痛いほどわかったので、
私はダメとは言えませんでした。了解したものの、
教育も運営もすべての責任が私ひとりの肩にのしかかってきて、
心細かったですね。
松尾先生が正式に教員として関わって下さるようになるまでの
約一年半の間、ただひたすら倒れてはいけないと念じてやっていました。
その当時の卒園児には成長の記録も書くことができず、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいです。

 

この「転換期」の数年間は、
幼稚園にとって大変な事件が次々と重なった時期だったんだよね。
この打撃で私は完全に体調を崩してしまいました。
全然食べられなくなってガリガリになって、生涯二度目の腎結石になりました。
一度目はドイツに行く前、
心も体もボロボロになって最初の幼稚園をやめた時でしたので、
私自身、続けられるのか不安でした。
体調不良が長期に渡り、4つの結石が出てもまだ回復しなかったので、
「死」が頭をかすめました。お母さんの中にも
幼稚園がいつ閉じられてしまうのか危惧された方がいらしたと聞いています。

 

でも、今回は幼稚園をやめることなく、
何とかかんとかこの時期を乗り切ったんだよね。
それは、私が病に伏せている間、ようちえんを支えて下さった
松尾先生とサポートスタッフの方々のおかげです。
松尾先生は就任1年目だったので大変だったと思う。

 

それからは、色々な面でいっぺんに道が開けてきた気がします。
耐震工事の件以降、大家さんとはすごく仲良しになって、
翌年から5年契約にしてもらえるようになったの。
それは、いわば「この園舎がダメになるまで一生使ってもいいよ」
と言ってもらったのと同じことだった。
それまでいつもいつも「いつかここを追い出されるんじゃないか」とか
「いつかお金がなくなってどうにも立ち行かなくなるんじゃないか」
とか心配し続けてきたことから、いっぺんに解放されたの。
この転換期の大変な時期を乗り越えてから。
そして奥田先生がお父様を看取られた後ようちえん教師として復帰され、
森山・奥田・松尾の3教師体制が整い、
1歳から10歳までの竹の子教育システムの流れが確立されたのが
つい去年(2011年)のことです。
まさに「転換の時代」、これが第三期だったのです。

 

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森山先生、竹の子ようちえんの20年を語る(5)」へ続く。